讃『ALLWAYS 三丁目の夕日』
スケジュールの合間があったので、新宿で『ALLWAYS 三丁目の夕日』(エグゼクティブプロデューサー/阿部秀司・奥田誠治、監督/山崎貴)を観る。
満席で立ち見(といっても通路に膝を抱えて座ったけれど)。この映画はゆったり小ぎれいな座席で観るよりこの方が良いかもしれない(街頭テレビを見たときのように)。
終わってから見渡すとふだんあまり映画館には来ないだろう年配者が約2/3。
私は原作者の西岸良平と同じ1947(昭和22)年東京生まれで、鈴木家の一平(小清水一揮)や、この映画ではほとんど主役といっていい古行淳之介(須賀健太)と同様、時代設定の1958(昭和33)年には10歳から11歳、小学5年生だった。
冒頭で一平が飛ばす模型飛行機。まったく同じようなものを組み立てて遊んでいたし、東京タワーがだんだん立ち上がっていく様もときどき見ていた。出来上がったときは早速展望台(当時は下の方だけ)に上がってみた(それ以来一度も行ったことはないが)。
そんなわけで本当に実感としてタイムトリップして浸ってしまう。
「もはや戦後ではない」と経済白書が宣言したのが1956(昭和31)年。「戦争が終わってはや13年」というセリフが出て来るが、まだ人々は戦争の惨禍の手のひらの内にいる。白衣を着てスクーターで往診する小児科医の宅間先生(三浦友和)は空襲で妻子を喪った痛手を抱えているし、煙草屋のおばちゃん(もたいまさこ)の少しぶっとんだところも夫と息子を戦争でなくしたこととつながっているだろう。ラジオからは敗戦後の混乱で離散した家族などの消息情報番組「尋ね人」が流れており、映画には出てこないが池袋の駅前あたりにはまだ手足や眼を失った「傷痍軍人」が白衣姿で哀し気なアコーディオンの調べを奏でていたかもしれない。
しかし、この映画の登場人物たちの表情にみごとに表現されているように、あの頃(昭和30年代前半)には「つつましい希望」と「日々の幸せ」とでもいうようなものが人々のなかに確かにあった。
それは1964(昭和39)年の東京オリンピックに向けての東京破壊とその後のがむしゃらな高度成長のなかでの金権主義や果てしない消費への欲望、経済大国になったことでの野郎自大ぶりなどとは異なる「素朴な一生懸命さ」と「充実感」「満足感」といったものだろう。
これは単なるノスタルジーとして言うのではなくオルターナティブだ。
小雪がインタビューで「この作品の登場人物とか、この時代を生きていた人たちって、何事に対しても一生懸命であることを恥じていない気がするんですよ。今って、一生懸命やることがかっこ悪く見えたり、テンションが高いって周りから引かれたりすることもあると思うんですけど」と述べているのは(小雪は76年生まれだが)当っている。
子どもの表情も今の子どもとは違う。他人の顔色をうかがい抑制する前に自分自身の喜怒哀楽をもっと表わしている。繋いでいないと罰せられるような条令などなく往来を自由にうろついている犬たちも生き生きしている。車もまだ少なく、都電はのったり動き、電話さえまだ50万台程度で持っている隣家に呼び出してもらいー(呼)と表記したー海外旅行などとてもかなわない時代だったが、人々は孤立してはおらず、コミュニケートしあい、助け合っている。
47年後の今日、私たちはこの頃より「幸せ」になったのか?
人と人とはつながりあっているのか?
明日に「希望」を持ち、日々の「充実」を感じながら「生きている」のか?
役者たちに拍手。吉岡秀隆、堤真一、薬師丸ひろ子、堀北真希、三浦友和、小雪、一平役の小清水一揮、そしてなんといっても淳之介役の須賀健太…。みな昭和30年代前半の父と母、男と女、少年と娘を演じきっている。
ハリウッドのひたすら刺激を追い求める、あるいは「感動」を押しつけるために使われるCGや特撮など大嫌いだが、この映画で「昭和33年を再現する」ために駆使されたミニチュア、CG、VFX(Visual Effects)は素晴らしい使われ方をしている。それについてはまた。
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コメント
玉島へおいでんせ~
投稿: さごしラーメン | 2006.06.04 21:17