よいお年を!
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大晦日の買い出し。
近場の由比ガ浜通り、店名がない「八百屋さん」で通っている八百屋さんで。一個でも売ってくれるし、長いハスやゴボウなどは半分に切ってくれる。
これだけ買ってもまけてくれて1,750円。
雑煮用の地鶏肉と囲炉裏用牛ヒレ肉の塊を宮代肉店で。
揚げ出し豆腐などは粂とうふ店。
ワインはdeux mille deux(鎌倉御成)で。
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創業70年を越える井上蒲鉾店の胡麻油で香ばしい小判揚。
厳選した「グチ」を素材につなぎを使わず練り上げている。
囲炉裏で炙るとさらにおいしい。
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「地図を読むおもしろさ」でも触れた「田舎家を守る会」の忘年会で祝ってもらい、馬の絵で有名な乾敏夫さんから来年の干支にちなんだ犬の絵をいただく。
乾さんは85歳になるがまだ達者に絵筆を握り、和太鼓奏者の中野島壱太郎さんと「共演」されたりしている。
奔放な筆使いはあいかわらずだが、これだけ色を使うのもめずらしい。
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「ラ・ジュルネ」(鎌倉由比ガ浜)で店主の綾子さん(写真右)とマイちゃん(写真左)にいっぱい遊んでもらう。
Micのお仕置きで書いたように、Micは「高い高い」が大の苦手。
もう一度説明します。
後ろから前脚の下を抱えて高くかかげる。
Micがどうなるか以下箇条書き。
・全身が硬直し、軽度の震えが走る
・前脚は折れ曲がったまま固まる
・かすかに「グー」というようなうなり声を発する
・目は焦点を失い、左右ともどこかをさまよいロンパリ状態
・それ以上の積極的な意思表示、行動はすべて停止する
綾子さんは、ミックは跳び上がり、前脚をはさみ〜のときの影響ではないかと言う。
う〜む、あれがトラウマになっているのかもしれない。
マイちゃんは抱き方がやさしいのかあまりパニックにならない。
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「ラ・ジュルネ」の本日のランチプレート。
あまりに具材豊富なので、お店のマイちゃんに書き出してもらいました。
いくよー
※手前のスープカレー
牛テールのダシとカレースパイスで味付け
じゃがいも、にんじん、ごぼう、さつまいも、タマネギ、サボイキャベツ(黒キャベツ)、寒ほうれん草、キャベツ、パスタ
※奥のプレート
アジのスパイシー焼き、オムレツ(カボチャ、平茸、葱、ナッツ入り)、青菜炒め(かんらんの葉、赤ピーマン、えのき、ゴーヤ、クミンなどのスパイスで味付け)、ハニーナッツ・オレンジズッキーニのバター炒め、サラダ(グリーンカール、サニーレタス、サラダほうれん草、からし菜、水菜、グリーンマスタード、レッドマスタード)
※デザートにメキシコのチョコラテのベイクドケーキと珈琲
ふぅ
私の一日分の食事終わりっ。
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CLUB NYX(クラブ・ニュクス)でのパーティーで。
ここは19世紀フランスの郷土料理をコンセプトにした、銀座通りに面したとは思えない落ち着いた店で内装も凝らされている。
ブルターニュ風のそば粉、ゲランドの塩を使った本場クレープがおいしい。
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「五十嵐威暢シリーズ展ーデザインとアートの軌跡」のラストとなる『五十嵐威暢展』(銀座・ギャラリーなつか)。
L.A.からアトリエと居を移した三浦半島秋谷の山と海をモチーフにフィンランドの樺合板を自在に刻む。
光と観る角度で表情が異なり楽しく美しく暖かい。
ダ・ヴィンチ、あるいは五十嵐観音になってしまった五十嵐先生。
海をモチーフにした作品の前で。
12月22日(木)まで ※日曜休館
ギャラリーなつか(銀座5丁目・日産と松坂屋の途中のGINZA PLAZAビル8F)
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もしかすると日本一小さいかもしれないパン屋「ジャックと豆の木」のチキンカツサンド。分厚くソースもたっぷり。
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ぜんまい仕掛けとカタチの工夫でひとつひとつ面白い動き方をするおもちゃ。シンプルだが楽しい。
カップを置くと置いた位置から波紋が拡がるテーブル。CCDカメラによる検知・画像処理と波紋パターンの生成、プロジェクタによる映像との合成がされている。複数のときは干渉しあい、置くものの大きさによっても変化する。
写真はないが、音声認識と辞書登録、位置検知システムを組み合わせ、しゃべったことが「吹き出し」になって表示される作品も実験として興味深い。
え〜、このウェディングドレスと駆け回っている犬の服も(着ている本人の)作品です。
これでデザイン学科卒業制作の審査会はすべて終わり。みんなお疲れさん。
これらの作品は来年2月10〜12日に行われる「上野毛デザイン展」(上野毛キャンパス)で展示公開されます。
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デザイン学科の4つの専門分野別に行われている卒業制作審査会。昨日はスペース・コミュニケーション・デザイン、今日はビジュアル・コミュニケーション・デザイン。
上は季語や季節のものにちなんだちょっとした細工ものを365日の小箱にしこんだ楽しい「季節はこ暦」。
歌舞伎の「隈取(くまどり)」。表情を強調し役柄を示す53種の隈取はすべて3Dで制作。
日常生活のさまざまなシーンから「名前」というものの果たすルールのようなものを発見し本にする。ルールなら「トリセツ(取り扱い説明書)」でしょ、というところから「トリセツ」仕様にしてしまった。余裕あるプレゼンもみごと。
これからやる人はぜひプレゼンテーションのポイントを一読してほしい。
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1957(昭和33)年が舞台の『ALLWAYS 三丁目の夕日』を観た後、当時同じ小学5年生だった小学校の同期会に行くというのも格別だったが、森山大道の撮った60年代新宿のプリントを観た後、ゴールデン街に行くというのもなかなか。
上は『あゝ、荒野』(寺山修司・森山大道╱PARCO出版)より新宿ゴールデン街のとば口。
中は同じ場所を撮ってみたもの。正面の店は一度焼失した。時計、敷石、車止めなどはこの頃と変わらない。
下は私のPartnerの兄さんが「かぼちゃ」に続いて2軒目として11月に開店したばかりの「ZUCCA」。店をあずかるのはハルキチさん。
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さてこれはどういうことなのか?
寺山修司の長編初小説『あゝ、荒野』は1965年から雑誌『現代の眼』(現代評論社)に連載。翌66年同社から単行本刊行。93年河出書房新社から文庫本刊行。
今回は森山大道が同時代の新宿の写真二百数十枚を付けたPARCO出版によるもの(発行人:伊東勇、発行所:株式会社パルコ エンタテインメント事業局 出版担当)。
渋谷まで出かけて「あゝ、荒野展」(PARCOPart1 ロゴスギャラリー)で「先行販売」を購入。
ところが平積みされている前になにやら小さな「誤標記のお詫び」がある。
今回の本はいわば、文:寺山修司、写真:森山大道だから「あとがき」がそれぞれの分二つある。
そのタイトルページを入れ違えているというのだ。
「あとがき 寺山修司」とタイトルされている左ページを見てめくると「亡き寺山修司さんと、いま一度ご一緒に仕事ができるとは思ってもいなかった。」という森山大道のページになっている。
写真のような「あとがき誤標記のお詫び」という小さな紙切れが後書きの手前のページにはさみこまれていた(言っておくが見返しにではない)。
現在刷り直しており、訂正版は12月10日以降に入荷する、という小さな表示もある。しかし誤標記版を買った人に無償交換するかどうか等の表示も販売員の説明も一切なかった。
問題なく納品されて当たり前が印刷出版物の宿命であることも、逆にミス間違いはいつでも起こりうることも私は経験で知っている。私が理解できないのは、そして密かに怒っているのは、この小さな「誤標記のお詫び」が出版元のPARCO出版名義ではなく印刷会社名義になっていることだ。
直接には印刷会社のデータ面付け上のミスだったのかもしれない。しかしこの説明不足では定かでない。
また、たとえそうであったとしても読者に対する最終的な責任は出版元が負うものではないのか?
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私にも「かなり気がかり」なのが、学生たちの言い回しの婉曲的な表現とコミュニケーション姿勢が増えていることだ。
クーラーを切っていたら教室が暑くなる。学生が発するのは、この本にもあげられているようにたとえば
「暑いかもしれない」
「暑いっす、たまんないっす」
「俺的には若干暑かったりするかも、みたいな」
断定的な物言いはしない、強い自己主張や異論と受け取られるような言い方も避ける。
末尾に「なんちゃって」を付けて冗談めかしてぼかすのがはやった頃からこの傾向はますます強まったように思う。
批判や間違いの指摘もできるだけ回避しやむをえない場合でも人前では言わず遠回しに察してもらうようにする。
使役形「〜させる」は嫌い「〜てもらう」を好む。
著者はこれは彼らが自分たちにもそうしてほしかった、そうしてほしいという願望だろうという。
「学生たちは遠慮がちにものを言い、まわりに気をつかう。まわりに対しても、同じようにふるまってほしいと望んでいる。動詞の使い方から見えてくる大学生は、よく言えば優しく、悪く言えばひよわだ。」
与えられたことやルールに疑問をさしはさまないよう、異をとなえないようずっとしつけられ、他を傷つけないよう、そのかわり他からも同じ姿勢を求め自分も傷つかないようにする。感情的な反発や気まずさが生じる危険があるなら避ける。
日本語コミュニケーションの豊穣さはどんどん萎え縮小していく。
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コミュニケーションは口頭であろうと文章を通じてであろうとしぐさであろうとモノを媒介としてであろうと、複数の存在の間の関係であり、伝達や意思の疎通・共有であり、理解・交流の深化なのだからインターアクション(相互作用)なしのコミュニケーションというのは原義的にありえない。
著者が「やまびこ挨拶」と呼ぶような相手からのリアクションを求めない一方的なコミュニケーション・メッセージが都会では氾濫するようになった。自動販売機・券売機、改札、ATMなどの機械はもちろん、店員たちはいっせいに「いらっしゃいませ」「こんにちは」「ありがとうございました」などというが客は誰も「こんにちは」などと応えはしないし、そんな「挨拶関係」をもう不思議にも思わない。
これらにあるのは、必要と思われるメッセージはたしかに発しましたよ、礼儀にかなった(と思われる)決められたことは守っていますよ、という意味合いだけだ。
様々な社会的立場の人やコミュニティや年配者とほとんど話す機会も必要性もなく生活が成り立ち、きちんと文になっていない言い回しばかりで仲間内で話し、あるいは誰とも話すことのない一日を送るときもあり、携帯メールで「文字列」は打ち込んでいるがおしゃべりの延長であって「文章」を書いているわけではない、若い人たちが増えたって当たり前だろう。
日本語は「察し」の文化だと長い間思われていた。けれどこの「察し」は話者間の相互作用、協力、コラボレーションで作り上げられ成り立ってきたものだ。学生たちと接していると「察してほしい」という気持ちだけは強いが、相互で作り上げるという言語的なコミュニケーション努力はほとんどしないのが現状だ。
若い人が一方的に悪いわけではむろんないし、突然降ってわいたわけではない。
「誰かが種をまいて水をやって育てたのだ」。
著者が言うように「いまどきの大学生」を取り巻く日本語の環境は「いまどきの大人」たちが作ってきた結果だ。
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おかしな日本語の言い回しを憂えたり茶化したりする本は最近たくさん出されているが、『かなり気がかりな日本語』(野口恵子╱集英社新書)は単なる「ことばの乱れ」というような観点だけからではなく、日本語による「コミュニケーション環境」の貧困化・狭量化・不全を問題にしている。
類書と異なるこの本の特長とおもしろさは、なにより著者が三つの大学で、外国人学生対象の日本語・日本事情、文学部の日本人学生に対する日本語教育概論、そして日本人学生に初級フランス語を教えるという教育現場を持ちそのなかでさまざまな観察、経験をし考察、提言しているからだ。
たとえば日本人学生に「外国人に敬語を教えるための会話文を作成する」という課題を出す。尊敬語と謙譲語を中心にした色々な場面における回答例を著者はもちろん想定している。
ところが大多数の学生の書いてきた会話文は、ほとんどがファストフード店、ファミレス、居酒屋、コンビニのレジといった接客場面での店員と客のやりとりなのだ。学生たちが「敬語を使った会話」と聞いてまっさきに思い浮かべ、最も親しんでいる、そしてほぼ唯一の敬語使用の場が「おタバコのほう、お吸いになりますか?」「こちらレモン・ティーになります」「1万円からお預かりします」「お先に大きいほう7000円になります」「お持ち帰りでよろしかったでしょうか?」等の奇妙な接客マニュアル語の世界…。
そしてこれらに対しても「お客さんに失礼のない言い方だと思う」「決まりだから」として疑問を持ったり、誰かにぶつけたり、調べようとしたりはしない。
学生たちの「敬語体験」はもう家庭でも学校でも地域でも読書でも希薄化しておりチェーン店サービス業の現場が中心なのだ。教員への「タメ口」も当たり前になった。
「コミュニケーション・ルールを知らない」者が増えたのか、それとも「ルールが確実に変化している」と考えた方がいいのか。おそらく両方が錯綜して進行しているのだろう。
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鎌倉駅で見かけた盲導犬。これから貸し出されるのだろう。ハーネスと背中に「仕事中です」と書かれた小袋。
「仕事中」にははたから犬をなでたり口笛を吹いたりハーネスに触ったりしてはならない。
盲導犬を今すぐ希望している人は4700人もいるのに日本国内では現在948頭にすぎないという(財団法人日本盲導犬協会)。
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女を見連れの男を見て師走 高浜虚子
さて虚子のこの句はなんなのだろう。
鎌倉に越して来てからのものかどうか分からないが、なに考えてるんだか…
【追記】
友人から興味深い解釈のコメントが付いた。
ネットでつのったら色々おもしろい解釈が出てきそう。
シナリオライター養成講座かなんかで題材にしてストーリーを作らせてもいい。
虚子自身が、俳句は時代などにとんちゃくせず解釈していいといっているし、写生より興趣で作られることも多いというようなことも述べているので、あくまで解釈も自由。
ただ私はどうしても歴史的背景などを知りたがるたちなので、昨日かたづけをしていたらたまたま出てきた『虚子五句集』でさがしてみた。
で、この句は1943(昭和18)年刊『五百五十句』の昭和12年のところに載っている。付記に「12月11日、二百二十日会、松坂屋写生、実花居」とある。
松坂屋百貨店を題材にした会が開かれ、直弟子の下田実花(山口誓子の妹)宅句会で詠まれたということなのだろう。
師走で混み合う百貨店に集う人々を観察写生した(あるいは想を得た)句なのだった。
しかし1937(昭和12)年の師走は悠長に花鳥風月を愛でているだけでは許されていない。
この句のすぐ前に「12月9日、東京朝日新聞社より南京陥落の句を徴されて」として三句
砲火そゝぐ南京城は炉の如し
かゝる夜も将士の制衣霜深し
寒紅梅馥郁(ふくいく)として招魂社
12月13日 日本軍南京攻略占領
以降のいわゆる「南京大虐殺」を当時の日本の一般庶民はまったく知らされない。
12月14日 新聞社主催の「南京陥落祝賀」パレードに人々は集い、靖国神社(句中の招魂社は旧称)から銀座まで練り歩いた。
12月25日の虚子の句
行年(ゆくとし)や歴史の中に今我あり
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